Mar 04,2017
Guest : Kazuyuki Akitani
T.B)北原さんに辿りついたのはどんな経緯だったんですか?
秋谷)で、ちょうど、、、あるブランドの立ち上げメンバーに先輩が居て、そのブランドに出入りしてて。そのときちょうど北原さんがめちゃくちゃそこをフォーカスして使ってたんですね。MEN’S NON-NO(メンズノンノ)とか。で、「北原さん結構来てるよ。ウチ、ちょうど東京コレクションでるから、一週間くらいお前手伝えば会えるかもよ」って言われて何も考えずに東京コレクションをフィニッシュするまで手伝った時にその先輩が「これだけマジで手伝えるなら、北原さん紹介してやるよ」って言われて、紹介して頂きました。そのブランドの社長さんと、当時のプレスの女性と先輩で、北原さんのBACK BONE(バックボーン)っていうブランドの展示会に連れてってくれて。
T.B)その出来事はバンタン卒業してからですか?
秋谷)バンタンの2年目の秋くらいですね。
T.B)そこから弟子入りですか?
秋谷)そこからは速攻「お前いいね、入れてやるよ」みたいな感じで。
T.B)その時はアシスタントは秋谷さんだけだったんですか?
秋谷)いや、僕のちょうど兄弟子が3年以上やってて、出たい出たいって言ってる時で。僕が入ったら、間髪入れずに出ちゃって。、、、最初は大変でしたけど。でも、まぁその時は24歳後半だったんで、逆に人として、どうこうっていう所から3年、4年かけて教わるアシスタント業だけど、社会人経験もあるから、上手く立ち回った方だと思います。ありがたい事でしたが、3分の1で教わるってことは3倍のスピードで学ぶってこと。それはそれは厳しかったよね(笑)
T.B) 過酷ですね(笑)アシスタント時代、一番苦労した事ってなんですか?
秋谷)どうだろう、、、僕はね、、、年齢がいってたっていうのもあるんで・・・。あんまり辛いとか辞めたいって思った事は一回も無かったかな。じゃ楽しかったのかって言われると100%とは言えないけど。まぁでも、責任の重さじゃないですかね。ある程度は理解してたんで。どういう事ミスしたら、自分じゃなくて、北原哲夫っていう名前に傷がつくのかとか。ミスするのが怖いとかと言うより、日々どう自分の責任を全うしていくかってことを考えてたかな。
T.B)ちなみに実際アシスタント期間はどれくらいだったんですか?
秋谷)13ヶ月間。
T.B)あっ!本当に1年だったんですね。
秋谷)11月くらいに入って、翌年の紅白歌合戦の最後の仕事で卒業しました。当時は北原さんが某ミュージシャンのスタイリングを毎年手掛けられていて。後に僕が4年間くらい専属で携わらせて頂きました。
T.B)そうなんですね。アシスタントの卒業は北原さんの一言なんですか?
秋谷)そうです。師のジャッジです。「もう一人でやれ」って。僕の場合はなんとなくケツが決まってたんで。ようするに、この一年間で卒業出来なければ独立しても生き残れないって事だったんですよね。
T.B)凄い厳しいですね(笑)
秋谷)いや、、、もうねぇ(笑)今だから言えるけど、北原さんは当時の大御所スタイリストの中でもトップクラスに入るくらい厳しい人だったんじゃないかな。怖い先輩なんてゴロゴロいる環境で育ったから、その辺の免疫はあったけど次元が違ったよね(笑)今じゃ誰も続かないんじゃないかっていうくらい(笑)
T.B)スタイリストになって一番テンション上がったのはどんな仕事ですか?
秋谷)テンション上がった、、、大きい仕事は師匠から受け継がせて頂いたミュージシャンの仕事で北原さんの流れじゃなくて、僕、スタイリスト秋谷として受ける様になった時の紅白歌合戦じゃないですかね。あ、、、あとあれか。ドームツアーの衣装を手がけた時が、やっぱり、3万人規模の人が見るスタイリングをした時は、やっぱり気持ちが高まった仕事だったかな。ファッションとしては、今は無くなっちゃったブランドなんですけど、東京コレクションのスタイリングとかやった時は面白かったですよね。
T.B)雑誌のカバーとかもやってらっしゃいましたよね?
秋谷)あぁそうですね。割と早い段階でメインスタイリストに入れて頂けて、結構色々とやらせて頂けて凄く嬉しかったですね。
T.B)そこからFinders Keepersを立ち上げるまでどんな経緯だったんですか?
秋谷)スタイリストをやって行く中で、、、スタイリストになる前から、ゆくゆく将来的に自分のブランドを作りたいなっていうのも薄々は持っていたんですけど、、、当然明確には何も持ってなくて。スタイリストになるきっかけが、これだけ世の中にイケてる洋服がいっぱいあるんだから、それをプロとして提案してカッコイイ人を作ってあげたいっていう思いでスタイリストになったんだけど。当然それを一番表現してたのは北原哲夫さんだったので、師事して学んで。で、独立させて頂いてからは日々様々なデザイナーさんが作るブランドの服を見てコーディネートをしていく中で、、、いろいろなポイントで違和感を感じはじめてきて、それがシルエットなのか、ディテールなのか、色合いなのか、素材なのか、、、そういった事がどんどん目に付くようになってきて。
T.B)そこがジレンマになってきたと。
秋谷)そうなんです。だったら、そういう部分を自分でコントロールして、服を作っていけたらなぁって漠然と思いつつ、、、しばらくしてから某ブランドのディレクションを、手がけた事があって。そこで生産をやってた人間と、Finders Keepersっていうブランドを作ろうかって決まったのが2009年くらい。準備に時間がかかったけど、今の相方と2011年にFinders Keepersを立ち上げたって言う感じですね。
T.B)Finders Keepersの名前はどんな由来なんですか?
秋谷)一番最初に、ヒントをくれた相方が帰国子女で、英語が凄く堪能で。Finders Keepersっていうフレーズを教えてくれて。「秋谷君が作る服を着た人が一番カッコ良くなるみたいな意味で使えるよ」って。手にした人が持ち主っていう意味なんで。Finders Keepersは。
T.B)そこがコンセプトにもなってるんですね。Finders Keepersの一番最初のプロダクトはどんな物なんですか?
秋谷)Finders Keepersとしては、、、ブーツカットのジーンズかな。Finders Keepersやる前に手がけたブランドで、超タイトなGジャンとブーツカットのジーンズと、タイト&ルーズっていうシルエットのツナギを作って。それが大ヒットしてムーブメントになって。それをリプロダクトしたのがFinders Keepersの最初ですね。それをもう一回作って欲しいって声を結構いただいてたんで。今のテンションでリプロダクトしたのがFinders Keepersのきっかけでしたね。当初はデニムだけだったんですよね。最初のシーズンだけですけどね。
T.B)デニムはどこで生産されてるんですか?
秋谷)今もそうなんですけど岡山県の児島ですね。
T.B)秋谷さんが実際に毎回行くんですか?
秋谷)僕は毎シーズン必ず現地に自分で入ります。自分で行って自分で指示をして、自分で生地をピックアップして。基本的にOEMは使わない。自分の意識が届く範囲の物しか作らない。他のブランドさんと比べると、全然品番数は少ないんですけど、全部自分で把握して、120%グリップ出来る物しか出さないのはプライドとエンドユーザーへの責任。それが整い始めたのは2013年のA/Wからなんですけどね。このお店を作った時から・・・
T.B)2013年にショップを立ち上げたんですね。それまではどうされてたんですか?
秋谷)卸しだけですね。2011年に始めたときに東京の人間がアメリカンカジュアルを始めるなら、リトルアメリカって呼ばれるリアルなエリアから発信した方が面白いんじゃないかと思って、一回地元の方の福生に戻って、福生の米軍ハウスを事務所にして、最初の2年弱は米軍ハウスでやってたんです。「見たければ来い!ここアメリカだぜ!」みたいなスタンスでやってたんですけど(笑)まぁ良い面もあり悪い面もあって都内からは遠すぎたんだよね、、、2013年春頃にWESCO JAPAN(ウエスコジャパン)さんの人達に「店の隣が空くから並んで一緒にやろうぜ」って。WESCOはずっと僕がスタイリスト時代から履いてたから、イメージも強かったし、好きだったからWESCOさんと並んでやれるならいいなって思って、今に至るんですけど。
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『リアルクローズ』
~僕らが徹底している事~
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