PERSON

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AFRA

自分が好きやったらやってたらええ

Guest:Human beat box ”AFRA”

T.B)AFRAって名前でいつからやられてたんですか?

AFRA)高1から、、、(笑)ある日、、、あのぉ「今日から俺AFRAっていうから、みんなAFRAって呼んでな!」って友達数人の仲間に言って「お、、、おう、、、わかった、、、藤岡!」みたいな(笑)もうその時点で藤岡やんけ(笑)言うてないやんけ(笑)AFRAや言うてんねん(笑)「わかった、、藤岡」って(笑)自分がHIPHOPが好きでステージネームが欲しいなって思って。憧れがあって名前をつけたのがAFRAなんです。

T.B)AFRAの意味合いはなんですか?

AFRA)今は【Always Fresh Rhythm Attack】にしてるんですけど、、、最初は僕は洋楽も邦楽も凄い好きで聞いてて、UA(ウーア)にめっちゃハマってた時期があって。UAは関西出身で、僕の地元吹田市出身で。で、僕は当時絵を習ってたんです絵画教室みたいな所で。 習ってたというか、結構自由に描かせてくれる所で。そこは美大に行く生徒もデッサンを習いに来てて、その一人にUAが居てたらしいんです。僕は知らずに通ってて。で、後々UAが好きな事を先生に話したら先生が「えっ、、、この子おったでぇ」って。で、もの凄く親近感が湧いて、まぁ憧れもあり、UAの楽曲も好きだし。で、そのぉ、、、UAって名前の母音を拾った様な名前が素敵やなっていうのがあった。あれはアフリカの言葉でスワヒリ語なんですけど、僕も黒人文化が好きでHIPHOPが好きやから、なんかないかな、、、って辞書を見てたら【Afro】って出てきたんですね。黒人のっていう意味の。あとはアフロヘアーのアフロ。それで、自分の章(あきら)っていうのとでAFRA。それに藤岡のFもあるし、いいんじゃないかって思って。後にNY行ってから親友になったアメリカ人のラッパーがAlways Fresh Rhythm Attackってつけてくれて、これがいい!ってなってそれから。

T.B)色々と繋がっていて凄いですね。しかも、UAが好きだったんですね。名曲ばかりですよね。

AFRA)  (笑)今でも好き(笑)きっと涙は、、、(歌い出す…)

T.B)やばいですね(笑)じゃあ高校2年生のNY以降はヒューマンビートボックスに移行されたんですか?

AFRA)  えーっと、、、ラップもやってはいたんですけど、いきなり僕もヒューマンビートボックスが出来たわけでは無くて、、、なんか、癖の様にずっとやっていて。1年くらい経って高校3年の時に、なんかいつもの様にやりながら遊びながら歩いてたら、友達が「あっ、、、今の藤岡がやってたんやぁ~」ってまだ藤岡って言われてるんですけど(笑)もう3年くらい経ってるのに藤岡なんですよね(笑)で、「藤岡がやってたんやぁ~」って言われて、「ラジカセやと思った!」って初めて言われた時に、「おっこれは、うまなってんちゃうん!!」なんも録音してやるとかじゃなく、やりっ放しの、、、親に「ちょっとやめなさい。何やってるの」「食事中でしょ」「バスの中はやめなさい」みたいな(笑)そういう事言われながら(笑)1年くらいやって、ちょっと自信ついたかなぁ~。

―関西独特のトークリズムでどんどん引き込まれていく僕…それが不思議な事に心地良かった。僕はもっとAFRAさんを歩んだ道を掘り下げていった・・・

T.B)そこからクラブのステージを踏むのはいつぐらいなんですか?

AFRA)卒業して1年くらいして韻シストに出会ってクラブに出たりはしたんですけど、、、それまでは全然クラブとか行った事なかったんで。BAYSIDE JENNY(ベイサイドジェニー)っていうHIPHOPのクラブが大阪にありまして、Common Sense(コモンセンス)が来たりBlack Sheep(ブラックシープ)が来た時に、見に行って帰られへんようになったこともありました(笑)

T.B)当時のクラブはどうでしたか?

AFRA)まだ19歳だったから、酒も飲めないし、、、今思えば、全然なんも遊びきれてない(笑)ただなんか、、、初めて行った時のクラブの世界って、、、なんか危険な香りのする闇の世界って感じがしたじゃないですか(笑)今ほどクラブを知ってる人は少なかったし、クラブってもっと少人数で行くサブカル的な。今って当たり前の様に「クラブ行く?」みたいなノリじゃないですか。なんかもっと簡単に行けないところ。親に内緒で行くような、、、だって僕の兄貴が高校でバンドマンやってた時に、親父がもう激怒して「音楽なんて!」みたいな。で、ある日バンドマン的なロングコートを買って来たんですよ。そしたら、、、「もう返して来い!!」でしたからね。うちの親父は厳しくて。

T.B)じゃあAFRAさんもお父さんに怒られた事はあったんですか?

AFRA)僕はね、、、(笑)それがなんか、、、兄貴と7つ違いで結構その間に親父が丸くなったというか、、、(笑)それに単身赴任もあったんで、、、親父のツバが当たらんとこに居たというか(笑)  逆に放任だったので自由にやれたというか。

T.B)高校生卒業の時期のHIPHOPシーンはAFRAさんから見たらどんなシーンでしたか?

AFRA) ちょうどMUROさんとかが凄いガーッと来てて。あのぉ、、、さんぴんCAMPの2年後くらいなんで、凄いHIPHOPが熱くて、BUDDHA BRAND(ブッダブランド)然り、スチャダラパー然り、、、。で、その余波でS.B.S(エス・ビー・エス)っていうグループで、DJ ShinさんMC U-ZIさんMC Booが結構シングルとか出して、結構熱くなって、King Of Diggin(キングオブディギン)で結構出されてるときで、関西で言うとBooさんが勢いがあった時期で、あと脱線3。Little Bird Nation(リトルバードネーション)の。スチャダラ周りの。なんかこうね、その時はいろいろ別れてた(笑)でもその、東京のシーンがやっぱりデカくて。こっちから見てると、それこそSOUL SCREAM(ソウルスクリーム)とかBUDDHA BRANDやったり。とにかく東京のパワーが凄くて、だから大阪は、、、全然まだまだ少なかったですね・・・。で、僕が98年99年にTHE ROOTSを見て逆になるんですよ。「バンドはダサイ。これからはターンテーブルでしょ?」って言った僕が、THE ROOTSに出会い、、、「バンドでHIPHOPでしょ!」ってなるんですよ。(笑)これは、、、ホンマに屈折の屈折というか(笑)いわゆるHIPHOPが人気になって来た時期に、それをよりマイノリティにバンドでやるっていうのに憧れて。まぁヒューマンビートボックスなんですけど。そういう仲間を凄い探してた時期なんです。漠然とバンドを従えてラップしてビートボックスやりたいなぁって思ってたんです。で、高校卒業くらいに、韻シストに出会って凄い仲良くなったんですよ。本当ファミリー的に1年くらい一緒にライブ続けてやって、、、NY行く予定だったんですけど、、、NY行きをちょっと諦めたんです。めっちゃ楽しい(笑)友達が居て(笑)

T.B)韻シストと活動してたのは98年くらいですか?それ以降はどういう活動をしてたんですか?

AFRA)  当時は98年くらいですね、、、99年の6月にNYに行ってそこから4年NYに居たんで。で、NYに行って、、、最初はロングアイランドっていう、ちょっと田舎のDe La Soul(デ・ラ・ソウル)出身の。ちょっとのほほーんってした地域で、そこに語学学校があって始めはホームステイしながら通ってたけど、市内に憧れをもって。(笑)一週間くらい経った週末に市内に遊びに行ったんですね。で、僕が憧れてるヒューマンビートボクサーのRahzel(ラゼール)のリリパかなんかに行く事が出来て。イベントのリリパとは別のフロアで他のアクターというか、ビートボックスをやってる奴が居て。そこでやってた人が、、、たまたま96年にNYに遊びに行ったタイミングで出会った事のある人達で。そのイベント、、、また帰れなくて(笑)帰られへんから、すがる思いで知ってる顔の人に声かけて「実はロングアイランドから来てて、今日帰られへん」って。そしたら凄いピースフルで「じゃあウチ泊まれよ」って。で、その晩泊まったら「明日、仲間のラッパーが来るから会わせたい」って言われて。自分はビートボックスやって

「おぉ~ノリええやん~」

みたいな感じで(笑)仲良くなって、その翌日ラッパーが来て、その彼が後々仲良くなったTES(テス)って奴で、そいつが僕のAlways Fresh Rhythm Attackって名前を付けてくれたんです。だからNYに行って1ヶ月くらいで、音楽が大好きな仲間に出会えたんです。

AFRA_AlwaysFresh_2

T.B)NYで遊び仲間に出会ったんですね。

AFRA)そうです。語学学校は日本人ばっかりで、全然勉強しないし、みんな日本語喋るし、、、絶対ここに居るより、市内に行った方が、、、ラッパーの仲間に会えて英語の勉強もできるし楽しいわーって。ロングアイランドに居るのに気持ちはマンハッタン(笑)そういうスタートだったんです。で、結局その後6ヶ月経って、同じ学校がブロンクスにあって、そっちに編入して、より市内に近い所に拠点を置いて。そこから彼らと色んなステージ踏むんです。

T.B)その時はグループ組んでたんですか?

AFRA)その時組んだのはLANGUAGE ARTS(ランゲージアーツ)っていう名前で。日本語にすると、、、言語学みたいな。ランゲージアーツって国語的な。それは日本人だし、アメリカ人だしって事で。その時のフライヤーもありますよ(笑)最初にNYで立ったときのフライヤーはMC AFRAでした(笑)最初MC AFRAでしたね、、、うわぁ~恥ずかしっ(笑)

T.B)じゃあ向こうではグループでずっと活動してたんですか?

AFRA) いや、結構ピンでオープンマイクとこ行ったりして。で、別の所でやったりして、バンドの知り合いができたりとか。まぁ凄い一番仲良いのは TESとSpacecraft(スペースクラフト)っていうDJが居て。その3人でよく遊んでましたね。近くには、Company Flow(カンパニーフロウ)のEL-P(エル・ピー)ってラッパーとかが居て、当時結構人気もあったアンダーグランドHIPHOPシーンに凄い近かったですね。

T.B)ちなみに当時NY行った時は英語は喋れたんですか?

AFRA) いや全然全然全然、、、喋れないですね。カタカナ英語ですね。でも語学学校行ってる時にアメリカ人の先生に発音が綺麗って言われたりして。あっ!絶対これHIPHOP聞いてたからやなって。それこそGang Starrのアルバムも歌詞を見ながら聞いてたんで。こうやって発音するんねや!って真似したりしてたんで。

T.B)じゃあその後NYから帰って来てから日本でスムーズに活動できたんですか?

AFRA)僕でも4年間行きっ放しではないんですよ。毎年、、、夏休みには日本に帰って来てて。帰って来ては韻シストとライブをしたり、こっちの仲間と一緒に音楽活動したり、NYの話しをしたり。大阪の仲間と一緒に遊んだり。2001年にロボ宙さんと知り合って、、、結果から言うとロボ宙さんのアルバムに参加する事になって、、、そこから僕は2003年にCDデビューするんですけど、、、そこのレーベルオーナーに出会ったんですね。それをきっかけに。

T.B)2003年にファーストアルバムなんですね。

AFRA)そうです。でもやっぱり、、、それを出したのがきっかけでCMが決まって。富士ゼロックス。

T.B)  あのCMで全国区になりましたよね。衝撃的でした。CMが決まったどんなきっかけだったんですか?

AFRA)ファーストを東京で出して、、、何かプロモーションをやって行く中で、、、さっき最初に話したNYの従兄弟の弟が当時テレビのディレクターをしてて、肉体っていうテーマの音楽を紹介する東京ローカルのTV番組に、ちょっとAFRA出ない?って言われて。で、なんも知らずに出て、それをたまたま富士ゼロックスのCMプランナーさんが見てて、「この人使いたい」ってなったのがきっかけらしく。

T.B)やっぱりそのCMは反響はデカかったですか?

AFRA)もう、、、凄いデカかったです。二枚目のDIGITAL BREATH(デジタルブレス)っていうアルバムを2004年に出して、初めて色々全国各地に行って、、なんせめちゃくちゃ人が居ました(笑)なんか自分はまだNY住んでたので、知名度の実感が無くて。なんか人居るし、、、イエーーイって。そんな感じに思ったけど(笑)後々考えたらCMか、、、って思って。当時はまだなんもようわかってない23、24歳の小僧ですからね(笑)今になって自分子供できて思うんですけど。生活に関してなんか・・・。ラッキーというか、、、そうですね。最初にNYに行った事で、ヒューマンビートボックスにRahzelに出会えた訳じゃないですか。でもそれって自分の金で行ったわけじゃないし、親もお金出してくれたり、その後、僕がNYもう一回行くことになって、じゃあ行って来いって言ってくれた、自分に寛容な家族が居た事に本当に感謝してます。当時HIPHOP好きな人はいっぱい居たと思うんですけど、現場に行けるチャンスを僕はもらえたんですよね。そういう空気に触れられて、それを僕は日本に持って来れたから、そういうスポットをもらえたと思うんですよね。そこは凄い有り難いなって思いますね。

Photographer:Reika Figuigui

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