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POSTERIZE

恩返しの意味もあるけど自分の存在を示すものでもあるんだ。

Guest:MARTIN-KINOO

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TOKYO BASE 以下T.B)ファッションに触れたきっかけはどんなきっかけなんですか?

POSTERIZE  MARTIN-KINOO 以下キヌ)僕、、、元々生まれは静岡の三島で、周りがちょっと…先輩が多かったんで、それこそ、、、LONDON NITE(ロンドンナイト)に行き始めたのが中学校3年生だったんですよ(笑)週末になると、なんとか新宿まで出て来て、それこそライブハウス行ったりとか、、、そんな事ばっかりやってて(笑)で、高校行ってその時になんか色々と地元のアパレルのお店にいりびたっててw・・・

T.B)そうなんですね。そこから東京に住み始めたきっかけは?

キヌ)高校終わる頃に、どうしよう何しようかなって思って。もちろんファッションに凄く興味はあったんですけど、建築が凄い、、、僕、建造物が好きで(笑)建築やりたいなって思って、お店の店舗設計とかメインでやりたいなと思って、バンタンの専門校で上京したんですよ。

T.B)建築専攻だったんですか。

キヌ)そうそう。科で言うとショップインテリア。ただ、バンタンは●●科みたいなもの関係なくみんなでパーティーすることが多くて、僕はインテリア科だったけど、当時ファッション科にいたMACKDADDY(マックダディー)の社長の日下部さんと知り合って結構遊んでたりしてましたね。この出会いが後々のファッションキャリアにかなり影響しましたね。

T.B)そこからの出会いだったんですね。

キヌ)そうそう(笑)年は上なんですけど同級生なんですよ(笑)

T.B)上京してからはバンタン以外に何か仕事とかしてたんですか?

キヌ)こっち出て来てからもアパレルの販売やってました。原宿の竹下通りの出口にパレフランスっていうのがあって、その一画にちょっとテント村っぽかったんですけど、古着屋のCHICAGO(シカゴ)があったんですよ。で、バイトの応募が張ってあったんで行ったら、、、その手前に本当、、、2坪くらいで、なんかパチもんのTシャツばっかり売ってる洋服屋があって、そっちに入っちゃって(笑)

T.B)そのままバイトで入っちゃたんですか?!

キヌ)そそ(笑)あれ、、、って(笑)働きだして、、、あっシカゴじゃねぇんだ(笑)まぁしゃーないなって(笑)まぁそこで働くようになって、当時、、、今で言うと東京No1 SOUL SETの渡辺俊美さんだったりとか、、、あの辺の人達が居たお店の人達と色々遊んでもらったりとかするようになって、、、だからずっと僕の周りにはファッション業界の人が居たんですよ。で、学校に行きながらバイトしてっていう生活をずっとしてて。あと、バンタン在学中にDJをこっちでまた始めるようになって。

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T.B)静岡に居た時代もDJされてたんですか?

キヌ)やってたんですよね。高校時代くらいからやってて。その時はバンドやったりDJやったりしてたんですけど。で、19歳のときに東京出て来て、当時僕が通ってた、OUTER LIMITS(アウターリミッツ)っていうブラックファッション、レゲエファッションを中心にしたセレクトショップがあったんですよ。そこにずっと出入りしてて、そこのお店がクラブをオープンするんだって話になって、オープニングでDJで入るようになったんですよ。結局だから、、、バンタン行きながら夕方アパレルでバイトして夜はDJやってみたいな三角な生活が始まって。

T.B)寝る暇もなくですね(笑)卒業後はインテリアの仕事に就かれたんですか?

キヌ)それが違くて、、、色々エピソードがあるんですけど、バンタンを卒業前のころかな、、、レコードを買いに行ってたレコード屋さんが渋谷にあったんですけど、四畳半のすごいちっちゃいお店だったんですけど、そこで週二日だけ入ってくれるバイトを募集してるみたいな、、、なぬ?!っと思って(笑)「や、やりたいです!」って言って。で、学校がちょうど終わる時期だったんで、やらせてもらって。で、とりあえずレコード屋さん週二日入って。でも週二日じゃ食って行けないと思って。その時原宿のバイト辞めてたんで。どうしようかな~って、フラフラフラフラ渋谷のレコード屋さんに通ってる時に途中で見つけた(笑)本当にフラッと見つけた、なんの変哲も無いデニム屋さんに、「すいません!バイト張り紙見たんですけど、募集まだやってます?」って言って入ったんですよ。

T.B)どの辺りにあった店なんですか?

キヌ)今、109の向かいにFUJIYAと眼鏡屋さんがある所で、Levi’sとかEDWINとか定番物を置いてるっていうお店だったんですよ。で、そこに入って働いてたら、普通のお店なのに凄いイカツイ人がよく出入りしてたんですよ(笑) 当時で言うところのラガマフィンみたいな格好をしてる人だったで(笑)「あの人はなんなんですか?」って先輩に聞いたら「あの人はこのお店のレディースやってるスーパーバイザーの人」って。(へぇ~あんなイカツイ人居るんだ・・・)って思って(笑)で、「そのレディースはどこにあるんですか?」って聞いたら「109に入ってる」って言われて。今でもあるんですけど。で、時が過ぎていって、、、そのイカツイ人とも話せるようになって、ある時メンズを閉めるってなったんですよ。その時にその人が、、、「お前どうせ仕事ないんだったら、レディースで働きなよ」って言ってくれて、そのまま109に働くようになって。で、その時に居たスタッフが本当、、、僕凄い運命を辿ってるんですけど、、、(笑)そのスタッフが、耳夫君っていって、、、元々“人生”っていうバンドの。いわゆる、電気グルーヴのオリジナルメンバーの人だったんですよ(笑)
——話を聞いて驚く僕。
キヌ)えぇぇ、、、って思って。「な、なんでこんな所に!」って(笑)それこそ、、、本当にへんてこりんなレディースのお店だったんですよ(笑)「何故ここにっ!?」みたいな(笑)でもなんてったってイカツイラガマフィンがレディースのスーパーバイザーやっているような感じだったから(笑)もう一人働いてたのが、CUBISMO GRAFICO(キュビズモグラフィコ)のチャーベって言うんですけど、NEIL&IRAIZA(ニールアンドイライザ)っていう渋谷系の音楽を作り上げた人なんですよ。このチャーべはだいぶキーパソンなんですけど(笑)音楽やってる者同士がそこには結構集まってたんですよ。まぁバイトしてみんなと仲良くなって色々遊んでたから、その当時全然気にもしてなかったんですけど、普通にチャーベや耳夫君の友達の一人として来てたのが、LOW IQ 1(ローアイキューイチ)“イッちゃん”だったんですよ(笑)

T.B)凄いメンバーが集まってたんですね(笑)

キヌ)ってのが109の地下一階の休憩室っていうか、スタッフ用のエレベーター前のすげぇ汚い所にみんな集まってたんですよ(笑)っていう数奇な色んなドラマがありまして(笑)基本僕レゲエのDJやってるんですけど。そういうバンド仲間が色々繋がって行って…

T.B)それがマルキュー時代ですね(笑)

キヌ)20代前半…僕にとってのマルキュー時代です(笑)レコード屋に週二日居て、マルキューのヘンテコリンなレディースショップ、、、ほぼほぼ店には立ってなかったですけど(笑)裏でずっと喋ってましたけど(笑)まぁそこには、そういう人達が居て、そのイカツイ格好した人は、、、APOMAN(アポマン)さんっていってレゲエ界の中でも、初期メンバーに近いレゲエの歌を歌ってる人で、僕もレゲエをやってたんでそこで今度はその人とクラブDJで廻るようになって。そしたら今度、週2で入ってたレコード屋の店長が、俺もう辞める!ってなって、僕が今度そのお店を引き継ぐ事になって…

T.B)え?!週二日スタッフからお店の代表ですか!?(笑)

キヌ)そう!週二日から(笑)言っても二人しかいないんですよ(笑)だから、その人が休みたい二日間だけ僕が入るみたいな感じだったんです(笑)関西の人だったんですけど、「俺もうしんどいねん。辞めるわー。後はお前に任せるわー」って・・・。「えぇぇ!!!」ってなって(笑)結局レコード屋に入らなくちゃいけなくなったので、109は辞めるんですけど。当時、宇田川町にはCISCO(シスコ)とかManhattan(マンハッタン)があったりとか、、、レコ屋がいっぱいあった時代で、いわゆる渋谷のレコ屋時代ですよね。その一画の一つにLion Music Den(ライオンミュージックデン)っていうレゲエ専門店があったんですよ。2~3年くらいかな、、、一人で切り盛りしながら。今も名古屋にも残ってるんですけどね。

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T.B)そのレコード屋で働いてる時にCHELSEA MOVEMENT(チェルシームーブメント)を結成されたんですか?

キヌ)色んな方々が来店される事が多くなって、、、その当時からこの人凄いなって思ったのはMURO(ムロ)君だったんですよね。 MURO君は週一くらいで見に来てて。それがあってMURO君の周りの人達とも仲良くなってて。で、マルキューで一緒に音楽談義をしてた人達ともずっと繋がってて。だから、レゲエがあって、パンクをメインにした人達がいて、HIPHOPをメインの人達も居て、僕の中で三重奏みたいになってて。だからこの時期はアパレルから一瞬離れるんですよ。レコード屋さんの何年かは音楽だけみたいな生活になって。それで、、、96年なんですけど、その109時代のボスがやってたレゲエグループに所属してやってたんですけど、親分のことがしんどくなってきて、、、僕らも若かったんで当時25とか26歳なんで「いや方向性が違います」みたいな感じでちょっと突っ張っちゃったんですよ。で、独立するんですよ。それで出来たのが、今やってる“CHELSEA MOVEMENT(チェルシームーブメント)”っていうレゲエのグループなんです。

T.B)チェルシームーブメントが立ち上がるまでにそんな経緯があったんですね。

キヌ)そうそう。立ち上げて1年間は日本で色々活動してて、同録の音源を毎回録ってたんですよ。シスコのレゲエの子がジャマイカに買い付けで駐在員になるって話になったので「じゃあ、俺らの事忘れないでね。これっ!」って感じでテープを渡したら、その子がジャマイカのオフィスでそのテープをよくかけててくれたみたいなんですよ。そしたらジャマイカのサウンドクルーの人達が、そのテープ聞いて「じゃあ、こいつらを呼んでイベントやろう」って話になり、トントン拍子で色々進んじゃって、、、結成一年ちょっとくらいで、ジャマイカでイベントに出るって話になって、向こうに出たんですよ。やったイベントも、3000人クラスのかなり大きいイベントで、地元の一番有名な所が2つ出て、僕らはスペシャルゲストで出て。そこでの反響がやっぱり凄くて、、、一回帰国するんですけど、オファーがずっと来るから、半年弱くらい日本でお金作って、家から何から引き払ってジャマイカに飛んだんですよ。それが97年なんですけど。

T.B)ジャマイカではどのくらいの期間、活動されていたんですか。

キヌ)一年ちょっとジャマイカで活動して。ジャマイカに居る間に泉谷しげるさんが取材してくれてフジテレビで放送されたり(笑)そこで泉谷さんもかわいがってくれたりして、98年の2月くらいまでかな、、、ジャマイカに居る時はジャマイカ拠点にしてアメリカいったりバハマ行ったり、呼ばれた所に行ってました。マイアミなんかもジャマイカコミュニティが強くてよく行ってました。で、僕がアメリカのスポーツが大好きなんで、マイアミにNYとかシカゴのチーム来てたら、現地のプロモーターに「ほら!来てるじゃん!チケット取ってよ!」って(笑)プロモーター泣かせだったなぁと(笑)

T.B)マイアミ言ったら絶対観戦みたいな感じだったんですね。どのスポーツが好きなんですか?

キヌ)いわゆる4大スポーツのバスケ、野球、アメフト、ホッケーが大好きで(笑)その当時インターネットとか無いんで、高い輸入の雑誌を読むぐらいしかないんですよ(笑)靴もジョーダン買ってればかっこいいみたいな(笑)それでジャマイカに行っちゃったもんだから、毎日テレビが面白くて(笑)

T.B)え、なぜですか?

キヌ)ジャマイカはアメリカのケーブルなんで、ひたすら放送されてるんですよ(笑)だから毎日暇があればずっとテレビで観戦(笑)

T.B)え!?ジャマイカでテレビっ子だったんですか?

キヌ)そうそう(笑)もう超テレビっ子(笑)泉谷さんにも、なんでもお前ら一年も居るのにこんな白いんだよ!って言われて、いやぁあんまり昼間出歩かないですからねーって(笑)大体テレビ見てるか〜木陰に居るか〜っていう話をして(笑)だから、スポーツによってシーズン開幕が違うんでバスケが始まって、野球が始まって、、、ホッケーが始まって、フットボールが始まって、こんな良い生活はないな~って(笑)アメリカで出張行く時は「ちょっとゲーム近くでやってないのー?」って。「いやぁ今週やってないんすよー」って。「なんだよ~そういう時に呼べよ~」みたいな(笑)

T.B)スポーツがメインなんですね(笑)

キヌ)もうそっちメインなの(笑)大体俺の中では(笑)シーズン中だったらもうソワソワしちゃって(笑)

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T.B)ジャマイカでの活動を経て日本に帰ってきたきっかけは何だったんですか?

キヌ)ジャマイカで年末にあるSTING(スティング)っていう紅白歌合戦みたいなのにも出させてもらって、地元の新聞にもよく記事が載ったりしてたんで「まぁもう日本に帰ってもやっていけるでしょ!」って高を括って帰って来たんですよ。そしたら、、、いわゆる日本レゲエ低迷期っていう時に帰って来ちゃって(笑)最初の一年くらいは色々呼んでいただいたり、イベント出させてもらったんですけど、段々レゲエが下火になってきて「これはちょっとしんどいぞ」ってなり、、、それがちょうど99年だったんですけど、僕の相方がもう30歳になるし、俺もこれは真剣に生活を考えなきゃいけないなっていう話になり、、「だったらもう辞めるぅ?」みたいな、、、ちょっと燃え尽き症候群じゃないですけど。その99年くらいはずっとそういった話をしてたんですよ。

T.B)そうだったんですね。その時点でチェルシームーブメントは辞められたんですか。

キヌ)そんなことはなくて、続ける辞めるみたいな話をしている中、、、たまたま原宿をフラフラしてたら表参道の交差点で、BMXに乗ってる日下部司を発見して(笑)あれっ!!!ってなって(笑)、、、僕、帰って来てコンビニかどっかで、彼がやってる雷矢(ライヤ)っていうハードコアのバンドがあるんですけど、彼のバンドが表紙になってる雑誌が売ってて「凄ぇ!」って思ってたときだったんで、BMX乗ってる彼に「何してんのー!?そういえばこないだ雑誌みたよー!バンドすげぇじゃん!今何やってんのー?」って。そしたら、「今マックダディーっていうブランド立ち上げてやってるんだよねー。知ってる奴何人かいるよー」って言われて。「誰々?」って聞いたら「イッちゃんとか着てもらってるしー」「へーそうなんだー」って言って。そのとき一番マックダディーがぐいぐい行ってる時なんですけど、僕はマックダディーを知らなくて。その再会がきっかけで日下部さんから「イベントやってるからチェルシームーブメントで出てくれない?」って言われて。そっから原宿チーム、、、まだ恵比寿だったんですけど、日下部さん周りのイベントに出させてもらうようになって、1年間はチェルシーとしてはやって来れたんですよね。でも、相方と色々と話しててたらやっぱり、相方の方がしんどいな…って、、、「じゃあ区切りよく辞める?2000年だし!」みたいな(笑)

——僕らはMARTIN-KINOOさんのテンポがいいトークに心を躍らせた。笑いが絶えず…BGMでかかってるレゲエミュージックがMARTIN-KINOOさんのトークのリズムとマッチして僕はどんどん夢中になった・・・

Photographer:

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