PERSON

デザイナー鈴木武雄

鈴木武雄

デザイナーは技術屋

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東京基地 以下T.B)武雄さんがファッションに触れたきっかけについてお伺いしたいんですけど子供の時からアパレル関係に興味があったんですか?

鈴木武雄 以下鈴木)子供の時、、、子供の時の話しですか?高校生まではサッカーしかしてなかったんですよ。本当に、、、(笑)

T.B)サッカー少年だった武雄さんが洋服に興味を持ったのは何がきっかけですか?

武雄)僕は高校3年の春までサッカーをやってたんですけど、その高校がめちゃくちゃ進学校だったんですよ。まったく付いていけないんです。恐ろしいくらいに(笑)中学校まで超出来ると思ってたんですけど、高校で打ちのめされて、天才は居るなみたいな(笑)で、丁度ちょっとした機会があって、従兄弟がニューヨークに居たんで、行ったんです。高校も行かないで。で、まぁそこで初めてサッカーから思いっきり離れて、海外も初めてだったんで、何かしてたわけじゃないんですけど、本当一人で過ごしてて。で、まぁお爺ちゃんが亡くなるっていうんで、戻ってきたんですけど、その後に9.11があるんですよ。

T.B)それからは日本に?

武雄)そう。また高校に通うようになったんですけど、同級生の女の子と話をしてた時に、その子が洋服の学校行くって言って、「え!?まじ、なにそれ!?」みたいな。で、一緒に見学に行ったんですね。それで、洋服の学校に入ったんですね。それが文化服装学院で。最初はデザイン科とか進むつもりもなかったんですね。でも、絵のコンテストかなんかで、9.11の絵を描いたんですよ。そしたらなんか賞を取ったんですよ(笑)そっから勘違いして、デザイナーになれるんじゃないかって。で、デザイン科進んで、今があるんですけど(笑)

T.B)その当時ってサッカーやめてニューヨークから帰ってきた時はどんな服装されてたんですか?

武雄)ストリートでしたね。オーバーサイズで。

T.B)好きなブランドとかあったんですか?

武雄)何があったかな、、、、HECTIC(ヘクティク)も凄かったですし、、、REVOLVER(リボルバー)っていうのもありましたし。でもどっちかって言うと、ヨーロッパにも憧れはあったので、A.P.C(アーペーセー)とかHelmut Lang(ヘルムートラング)着てました。ストリートはもうちょっと前なのかな。

T.B)文化服装ではデザイン科にずっと在籍されてたんですか?

武雄)1年生は基礎科っていうのがあって、2年生でアパレルデザイン科っていうのに進むんです。2年と3年があるんです。最初の基礎科で派生して、ニット科とか、、、もっと細分化されるんですけど、その中でデザイン科を選んだだけです。

T.B)その3年デザインを習って、すぐに卒業後どこかのアパレルブランドに就職したんですか?

武雄)就職は全然上手く決まらなくて、先輩の会社で働いてました。アパレルの企画会社で。でもそこもすぐ辞めて2ヶ月くらいしか居なかったんで(笑)その後はパターンナーやってたんですよ。その時はレディースの会社で東京コレクションとかにも出してる会社に就職して、そこでパターンナーをやって。

デザイナー鈴木武雄

T.B)そこは結構長かったんですか?

武雄)そこも短いんですよね。1年しかやってないです。

T.B)、、、結構クイックですね(笑)

武雄)そうそう(笑)結構ちっちゃい時から、、、長続きしないって(笑)

T.B)じゃあ今に至るまでは色々な所を転々とされてたんですか?

武雄)いや、そこの最初だけなんですよね。特別考えなかったんですよ。何年居ようかとか。好きか嫌いかっていうのがほとんどなんで。で、パターンナーをやった後に靴の会社の社長と知り合う機会があって。青山に、当時その靴の会社の社長がやってるセレクトショップがあったんですよ。見た事ないイタリアの服とかがおいてあるお店。ここでちょっとメンズの服とかやらないんですか?みたいな話しをして、そしたら社長が興味あるってなって。で、それで自分もそこで、ブランドやりたいんですって言う話しをして、やらしてもらう事になりましたね。

T.B)そこから自分のブランドを一人でやられてたんですか?

武雄)最初は服のブランドだったんですけど靴の会社なんで靴もやってみようってことで、イタリアの素材を日本に直接安く仕入れて、日本の職人で作るっていう靴を作ってて。当時、そういうのが珍しかったんで、2シーズン目から凄い伸びを見せて、なんだかんだで日本とイタリアを行ったり来たりしながら靴のブランドを5年半くらいやってましたね。

T.B)じゃあアパレルから靴メインになっていったんですね。

武雄)そうそう。靴メインになってきました。靴と革って感じで。靴の事ばっかり考えて。今は靴大好きなんですけど。

T.B)5年って長いですよね。

武雄)いや、でも5年半もあっと言う間に過ぎていって。で、また洋服やりたいなーって思ってて、また偶然、前の2ヶ月しか居なかった会社の先輩に会って、その人からBACKBONE(バックボーン)の話しを聞いて、一回紹介するからって言われて。

T.B)それは武雄さんが何歳くらいの時ですか?

武雄)27歳の時。

T.B)その時は靴のブランドは?

武雄)辞めてはないです。でもそこで、北原哲夫さんに会ったんです。そしたら北原さんが「いつから来れるの?やろうよー」みたいな感じで。でも「靴の展示会があるので直ぐには無理です」って言ったんです。だから最後の靴の展示会はBACKBONEのみんな来てましたね(笑)それで、そのまま展示会終わって、「辞めます」って言って他の人に引き継いで、数日してBACKBONEに居ました。

BACKBONE

T.B)じゃあBACKBONEにはデザイナーとして入社したんですか?

武雄)いや、生産管理として入ったんですよ。北原哲夫さんと太田直也さんが居るんで。元々北原さんが始める前に太田さんがBACKBONEを作ったんです。そこに後から北原さんが入って、一緒にやる事になったんです。僕は2代目のデザイナーですね。

T.B)意外にも最初は生産管理だったんですね。

武雄)そう。もう一回裏側の仕事をしっかりもう一回やってみたいなって思って。で、どれくらいやったかな、、、3年くらいやったかな。そこから、太田さんがもう一回新しく作りたいんだよってなって。太田さんももう一回歩み直したいってことで、僕が居るから引き継ぐって事で。

T.B)じゃあ生産管理をしながらデザインも?

武雄)あぁもうほとんどやってました(笑)結局自分が出てっちゃうんですよね。入った時の工場の背景とかもあんまり合わないなって思ってたので、自分の元々持ってる背景とかを使ったりしながらやってて。自分の方が割とどんどんやっちゃう方だったので。

T.B)そこから引き継いで、今に至るって感じなんですか?

武雄)そうです。完全に自分がデザイナーとして指揮を取るのは今シーズンからですね。今後はそこを新しくやっていきたいってタイミングでしたね。

Photographer:Reika Figuigui

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